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銀行に行ってびっくりです。 - titose Site
2014/09/19 (Fri) 10:59:01

我慢できなくて、伝えることにしました。
中学の子供に服すら買ってあげることができていませんでした。
でも、こんな情報があったなんて!
連絡するだけで一生使い切れないほどのお金をもらえたんです。
こんなに美味しい思いをしたのは生まれて初めてです。
こんなにすごいこと、私一人で体験するなんてもったいないです。
是非みにいってみてください!
http://luv.boy.jp/
このことは一生忘れません。 - maiha Site
2014/07/20 (Sun) 13:44:40

少しだけでもいいので、時間をください。
就職もできずにお金だけがなくなっていく毎日でした。
私の人生は、ある方法で、がらりと変わりました。
振込みをお願いするだけで、即日大金を手に入れることができてしまいました。
銀行に行くまで実感なかったけど、記帳して本当におどろきました。
こんなチャンス、二度とないと思いますよ。
今すぐ連絡した方がいいと思います。
http://heep.noor.jp/
天使が連絡してくれました。 - shigawara Site
2014/07/19 (Sat) 06:26:02

突然ごめんなさい。
最愛の人と別れて辛い人生が続いていました。
そんなとき、ある人を知ってしまったんです。
おそるおそる連絡をしただけで、本当にお金が振り込まれたんです!
これで苦しまずに生活することができます。
一度きりの人生ですから、おもいっきり遊んで暮らしたいですよね。
善は急げです。
http://heep.noor.jp/
お金さえあれば、すべてうまくいきます。 - 徳本 Site
2014/07/16 (Wed) 09:27:23

こんなことを書いたらおこられるかもしれません。
母子家庭で10歳の息子がいて、何も買ってあげられなかったんです。
そんなとき、すごい夢見たいな話がきたんです。
ただでお金をもらえてしまって…本当にいい人に出会ってしまいました。
借金もあったので、おかげで生活がすごく楽になります。
こんなにすごいこと、私一人で体験するなんてもったいないです。
絶対見たほうがいいですよ!
本当に困っているときに、助けてくれる人がいます。 - sano Site
2014/07/08 (Tue) 13:22:25
もう我慢できないのでここで告白します。
小さい頃からお金には困っていました。
そんなとき、ある掲示板を知ってしまったんです。
一生使い切れないほどの大金を手に入れてしまったんです。
返済する必要がないお金をもらえだなんて。
連絡するだけでただでお金を振り込んでもらいました。
是非みてください。
友達から聞いたんだけど - 香穂留 Site
2014/06/27 (Fri) 15:53:08
信じられないけど、なんの見返りもなく800万もらえたみたい。
私も連絡してみようと思うけど、よかったらどうぞ♪

なんか1000万までは無条件でもらえるみたいだよ!
こんなに頂いていいのか… - 寧恩 Site
2014/06/27 (Fri) 03:04:58
迷いましたけど、必要だったのでありがたく受け取る事にしました。

お金に困ってる事があれば連絡してみてください。
とっても親切で良い方でしたので、きっと力になってくれると思います。
4000万を頂きました! - 心晴 Site
2014/06/24 (Tue) 10:39:17
どうして支援してくれるのか詳しく聞いていませんが、
ものすごく持ってるみたいです。

しかもまた何かあったらいつでも連絡してと言われました!

良かったら連絡してみたらいいと思いますよ♪
早く連絡した方がいいですよ! - 夕起 Site
2014/05/29 (Thu) 12:13:06
私も最初は疑ってましたけど、半信半疑で連絡してみたところ、
今日銀行に行って確認しましたら、3000万振り込まれてました!!

私のように夢がある人やお金に困ってる人に支援しているみたいです。
おかげで夢だった自分のお店が持てます。

とにかく連絡してみてください。
きっと私のように驚くと思います。
小渕首相の緊急入院こそ史上最大のパロディ - ねこ
2013/12/05 (Thu) 13:34:16
小渕首相の緊急入院こそ史上最大のパロディ
http://park.geocities.jp/jpcdebate/0203/p036.html#page247
1000年4月2日、藤原一族は、二人の女性を天皇の皇后と中宮にした。
これこそ、藤原一族の絶頂期だった。
これだけでも日付の語呂合わせなのだが、さらに、
2000年4月2日、小渕首相は、またもやパロディを演出した。
この国は、いつまでたっても古代王朝、インチキ国家だ。
(仮説を含む)
( http://book.geocities.jp/japans_conspiracy/01/p007.html )
移動しました - 吉田 Site
2010/04/03 (Sat) 21:40:58
ブログをgooに移動させていただきました。
http://blog.goo.ne.jp/yoshi_iltuki
以後こちらを宜しくお願いします。


蘇我と須賀をつなぐもの - 吉田一氣 E-mail Site
2009/09/24 (Thu) 14:53:04
須賀神社や須我神社というものが各地にあり
ほぼ祭神は素盞嗚尊となっている。
この須賀は蘇我の事ではないかと推察しているが
その根拠をまとめてみたい。
まず「そが」と呼んで素盞嗚尊を祭祀しているのは
出雲大社内の素鵞社がある。
そが=すが=素盞嗚尊系という傍証にはなろう。
また大阪府南河内郡河南町一須賀にある「一須賀神社」は
蘇我氏の本支族がその祖廟として「宗我石川宿禰」を祀っている。
これも蘇我と須賀をつなぐ傍証となろう。
この「一須賀神社」では素盞嗚尊は祀られていない。
万葉集十二巻に
真菅吉 宗我乃河原尓 鳴千鳥 間無吾背子 吾戀者
ま菅よし宗我の川原に鳴く千鳥間なし我が背子我が恋ふらくは
という歌があるが、ここで「ますげよし」というのは
宗我=蘇我の枕詞となっている。
すが=菅=須賀と、そが=宗我=蘇我をつなぐ傍証のひとつだとする。
金比羅宮の摂社に真須賀神社というものがあるが
まさに真須賀は蘇我の枕詞であろう。
Re: 蘇我と須賀をつなぐもの - 吉田一氣 Site
2009/11/04 (Wed) 23:02:52
追記:蘇我といえば飛鳥だが、飛鳥の名前の由来について
蘇我氏が関与していると考えている。
飛鳥は阿須賀とも書く。
和歌山の阿須賀神社は飛鳥山から名付けられたともいうが、
須賀=蘇我と考えると
飛鳥が蘇我氏から付けられた地名だということに納得できる。
Re: 蘇我と須賀をつなぐもの - 吉田一氣 Site
2009/11/08 (Sun) 13:38:35
筆者の蘇我氏考察にも記載しているが
聖徳太子も蘇我系だと考えているが、
この聖徳太子は斑鳩の宮を造営している。
この斑鳩というのは鵤(いかる)という鳥に由来しているが、
この鳥のさえずりは「月日星(つきひほし)」と聞こえるところから
三光鳥ともいうとのことだ。
日月星の三光は蘇我氏を現すと筆者は考えている。
詳しくは以下を読まれたい。
http://reyline.web.fc2.com/soga/soga.html
斑鳩が蘇我の本拠地として造営されたことは間違いない話であろう。
さて千葉の蘇我比咩神社の由緒書によると
蘇我一族は「春日神社」を守護神としていると記載されている。
にわかには信じがたい話ではある。
ただこれが真実だとすると春日=香須賀で
蘇我から付けられた名前ということになる。
だとすると春日神は蘇我の祖霊だったという歴史を覆す話となってしまう。
この検証は今後の課題としたい。
Re: 蘇我と須賀をつなぐもの - 吉田一氣 Site
2009/11/08 (Sun) 14:12:53
聖徳太子について記載したついでに考えを述べると
同時代で聖徳太子の側近の小野妹子についても
蘇我氏と繋がる可能性がある。
小野妹子は聖徳太子作成の「日出処天子」の
文言で知られる国書を携えて
隋に渡るが、隋で小野妹子は蘇因高と呼ばれたということだ。
蘇因高の蘇は蘇我で因高は妹子のことと思われる。
ところで蘇我馬子の子供は毛人である。
ところが小野妹子の子も毛人という。
また蘇我毛人はなぜか日本書紀では「蝦夷」となっており
毛人が隠されている。
小野妹子についての年表は607年に隋に行き
裴世清をつれて608年には帰国し、
さらに裴世清の隋への帰国にも同行している。

蘇我馬子については596年飛鳥寺を建立記載の後は
612年の堅塩媛を欽明天皇陵に合葬する儀式の記載となる。

さて名前に子がつく男性名について馬子 妹子以外に知らない。
蘇我馬子=小野妹子かどうかはなんとも言えないが
小野妹子が蘇我氏系であることは十分考えられる。



天社宮の参道 - 吉田一氣 Site
2009/11/01 (Sun) 22:03:32
今でこそ高橋の天社宮は小さな参道も無い
祠のような神社に縮小されているが、
もとは高橋町の中心的な神社であった。
この天社宮の参道沿いは天社町と呼ばれていたようだ。
祭神は道君首名公が祭祀した天神=少彦名神であった。
明治39年の一村一神社運動で若宮と天社宮は
高橋神社となったようだが天社宮のご神木と対面した時、
この神社への古代からの崇敬の念が、
このご神木を神籬となして神霊が降臨してきた事実と
この天社宮がただものではないことを感じさせてくれた。
謡曲 「高砂」の意味するところ - 吉田一氣 E-mail Site
2009/10/17 (Sat) 10:23:23
古今集仮名序の「高砂、住江の松も、相生のやうに覚え・・・」を元に
世阿弥は結婚披露宴の定番である謡曲『高砂』を作るが、
この内容は、神戸の高砂の松と難波の住吉の松が夫婦である事を
阿蘇宮司が承認するというものとなっている。
高砂神社と住吉大社に祀られる神が夫婦である事を言っているのだが
高砂の神とは神功皇后であるが住吉の神は誰かということが問題である。
神功皇后と武内宿禰は夫婦であったと思っているが、
住吉の神と武内宿禰との繋がりはどう考えるべきか?
住吉の神は阿波岐原で禊をした際に「少童命=わたつみの神」と
共に生まれた「筒男」のことであると考えられる。
武内宿禰に関しては第八代孝元天皇の孫とも云われている。
孝元天皇の子供は大彦命、少名日子建猪心命(少彦男心命)
稚日本根子彦大日日尊⇒開化天皇、倭迹迹姫命となっている。
少童命=少名日子建猪心命で、筒男=武内宿禰と仮定すると
武内⇒竹の内⇒竹筒という仮説も取れる。
ところで秀真によると酒の発見は、
竹の切り株に雀が籾を入れてそれが発酵したのを
スクナミが発見したのが最初と言われているが、
この酒のことを『笹氣』と呼び
スクナミはこれ以降「ササナミ」と呼ばれたそうである。
ササナミは近江の笹氣山に住居を構えた。
笹氣山⇒沙沙貴山君 (雀部⇒佐々木)が輩出する。
ここで出てくる竹筒は竹内宿禰、雀は雀部(ササキベ)
スクナミは少彦名許士尊⇒少彦名神に繋がる。
また「ささなみ」は枕言葉として志賀に掛かるが
志賀海神社=少童命と「ささなみ」=少彦名神の関係を匂わせる。
話は元に戻るが神功皇后と武内宿禰は夫婦であることを認めることが
『千秋楽は民を撫で、萬歳楽には命を延ぶ、相生の松風、
颯々の聲ぞ楽しむ、颯々の聲ぞ楽しむ』という祝福を
受けるということになることがミソである。
これは『千秋楽』という雅楽を演奏して民の安全を願い、
『萬歳楽』という雅楽を待っては君の長寿を願うというということだが、
神功皇后が仲哀天皇の皇后では無かったということだ。
七福神の福禄寿について - 吉田一氣 E-mail Site
2009/10/12 (Mon) 12:04:58
かねがね七福神の福禄寿と
亀蛇に乗る妙見神は同一であると思っていましたが、
福岡の宮地嶽神社で見た七福神の福禄寿の足の下に
亀がいて同じことを考える人がいたことを知りました。
さらにネットで調べてみると福岡県田川郡の
照道院の福禄寿像は亀の上に乗っているそうです。
弥栄とは極めて物質的なレベルの賛歌のことだと思います - 吉田一氣 E-mail Site
2009/10/06 (Tue) 00:43:18
筆者は技術者として先端を垣間見たこともありましたが、
人間が歴史を重ねて今までに作り上げてきた
技術と文化と物質の値打ちは
計り知れないものがあると思っています。
日々神霊界にその意味の深さを奏上しています。
次元の高い神霊界と違い、
この現実世界は意識が物質を形作り、物質が物質を形作る中で
物理法則というルールに縛られた固定化された世界です。
この次元は唯一無二の世界です。
神霊界霊界幽界を含む三千世界に生まれた特異点です。
次元の歪の中に生まれた混沌を
人類の意識がひとつひとつの混沌とした現象を
一つ一つ整理し並べ論理と摂理でもって
膨れ上がる歪を封じ込めてきたのです。
この世界を人類の方から捨て去ろうというのは
真に以って愚かな事です。
人類はまさに今選択を迫られています。
一つは次元上昇アセンションです。
一つは地球と人類の滅びの道です。
一つは現実世界で人類そのものの生命進化です。
釈迦はこの世に諸行無常 諸法無我を感じ
涅槃寂静を理念としました。
確かに常なるものは無く、実体も無く
あるものは意識が生み出した波動のみです。
波動のエネルギーを物質に錬金したのです。
そういう混沌の中でよくぞここまで世界を作り上げたものです。
実はこの実体世界は三千世界の希望の星なのです。
現実世界こそが弥栄の源泉なのです。
日本国はこの変化において重要なキーなのですが、
それは製造した物質にも神を観る神道が根付いているからです。
人間が作り出した物にも(偶像以外でも)
神が宿るという発想は非常にユニークなものです。
実際に八百万の神々として、鰯の頭に神を見た人も居たわけです。
(西洋でも古代にはソード等に神霊を見ていましたが。)
例えば貨幣などは物質世界の悪の象徴のように言う方も多いのですが
人間が作り出した価値観のピークであり、
これがどう運用されていくかをこそ見守り祈る必要があります。
我々の祈りとは社会が正常に機能して
人類が発展することを第一とすべきだと思っています。
そしてその基本は寛恕と和と思いやりの精神だと痛感しています。
橘と蜜柑について - 吉田一氣 E-mail Site
2009/10/05 (Mon) 22:55:50
たぶん橘と蜜柑は同じ柑橘系ではあるけど
橘が品種改良で蜜柑になる訳ではないので
非時香菓が橘であるとしてもそれは蜜柑ミカンではない。
蜜柑をもたらした者が神功皇后・武内宿禰・
蘇我石川宿禰・波多八代宿禰の系統と
考えることも出きるしそういう伝承も残っている。
ただ蜜柑栽培をここまで広めさせたのは
道君首名公で間違いないだろうという結論に至っている。
実は蜜柑栽培農家が道君首名公を祭祀して来たという
確信に近いインスピレーションを得ている。
また鏡餅に蜜柑を乗せるのも
蜜柑に霊的背景があるからだと思われる。

行く秋のなほ頼もしや青蜜柑 - 吉田一氣 E-mail Site
2009/10/04 (Sun) 21:09:36
芭蕉の句に
行く秋のなほ頼もしや青蜜柑
というものがある。
榊もそうだが秋から冬への衰退の移り変わりの中で
生命力が輝くことに神への礼賛を重ねている。
霊ラインの生命力を表わし強めるものとして
青蜜柑は最適な植物なのかもしれない。


道君首名とミカン - 吉田一氣 E-mail Site
2009/10/04 (Sun) 17:31:05
2009/09/13に熊本市の妙観山=妙見山(みょうけんざん)と
呼ばれている山について記載したが、
かなり苦労してこの山の頂上に登って来た。
この妙観山の周りは蜜柑畑になっているのだが
頂上へのルートが笹薮に遮られて見つからないのだ。
諦めて一度帰宅したのだが、
お守りにしていたパワーストンの首飾りを
落としたことに気づきそれを探しに行って
偶然に登り口を見つけた。
妙観山のサブピークには巨石が並んでいて霊的背景を感じた。
この山の中を歩きながらふとこの蜜柑を栽培させたのは
道君首名公ではないかと感じた。
早速帰って調査してみると、蜜柑の来歴について、
垂仁天皇のころ、菓祖神田道間守が不老長寿の果実
「非時香菓(トキジクノカグノコノミ)」を持ち帰っており、
それが橘で、その実を植えられたと言われるのが、
肥後八代の高田であり、
これが今に残る高田蜜柑(八代蜜柑)の起こりと伝えられるとある。
また紀州の蜜柑については、
「天正2年(1574年)甲成年中
有田郡宮原組糸我庄中番村伊藤仙右衛門と申者
肥後国八代と申す所より蜜柑小木を求め来たり、
初めて宮原糸我の庄内に植継候処、蜜柑土地に応じ、
風味無比類色香果の形他国に勝り候に付、
次第に村々へ植え広げ申候。」
とあり田道間守が熊本の八代に栽培した蜜柑が
紀州に広まったということだ。
なぜ田道間守が熊本の八代に橘を植えたのかという疑問には
九州遠征の中の景行天皇に届けたためという話らしい。
ただ伝説とは切り離して考えてみると
蜜柑栽培は金峰山と宇土半島八代で盛んであり
橘でなくミカンという文字から考えても三韓に繋がることから
道君首名公が新羅から持ち帰り、
この地で栽培させたのではないかと推察している。
「小天郷土史」記載の中川斎氏も
道君首名公説を採用されているそうである。
またこの地域は中央構造線の西の端となりエネルギー分布と
ミカン栽培範囲が重なっている。
蜜柑の熊本霊ライン構築で果たした役割というものについても
今後考察していきたいと思っている。
佐倉藩鎮守の麻賀多神社 - 吉田一氣 E-mail Site
2009/09/26 (Sat) 10:36:15
佐倉市鏑木町933に佐倉藩鎮守の麻賀多神社がある。
ここのパンフレットによると
麻賀多神社というのは「麻の國で多氏が賀す神の社」ということで
國造の伊都許利命も多氏一族と記載されている。
確かに神八井耳命の後裔はいくつかの系統に分かれていて
8/12にも記載しているが筆者は、
神武天皇─神八井耳命─多氏と
神武天皇─神八井耳命─蘇我氏
を別けて系統を調査している。
神八井耳命の八代孫といえば多氏系統とも
蘇我系統とも考えられる訳であるが
佐倉藩鎮守ともなれば由緒上は多氏系統の方が都合がいい。
桓武平氏を称する千葉氏は、多氏の後裔となっている。
結局のところ蘇我は封印されてしまった訳である。
千葉の須賀という地名について - 吉田一氣 E-mail Site
2009/09/24 (Thu) 19:09:57
今ネットで千葉の須賀という地名を調べました。
検索では以下のような地名が見つかりました。
千葉県成田市北須賀
千葉県印旛郡 栄町 須賀
千葉県木更津市長須賀
千葉県九十九里浜本須賀
千葉県山武市本須賀
千葉県夷隅郡御宿町須賀

ところで九州の佐賀県小城市小城町松尾にある
須賀神社は関東から下向した千葉胤貞が
京都の祇園社(現・八坂神社)より分祀して
創建したものだそうだ。
もともと小城祇園社と呼ばれていたものが
明治に須賀神社と改名されたそうである。
千葉の須賀も古いものなのか疑問が残るが
少なくとも千葉県成田市北須賀という地名に関しては、
1775年より古いことが分かっており
今後さらに蘇我との関係を調査する必要性も感じている。

千葉の麻賀多神社に参拝してきました - 吉田一氣 E-mail Site
2009/09/24 (Thu) 18:25:31
このシルバーウイークに
ある縁で千葉の麻賀多神社三社に参拝してきました。
この中で麻賀多神社と蘇我を結びつけるものについて
いくつかのヒントがありました。
霊的な感応なので、
あくまで自分が納得したというだけの話です。
まず初日に挨拶ということで成田市台方の本殿に参拝後に
話しに聞く岡本天明感応の地である天之日津久社を探したら
右手が妙に夕日に輝くので吸い寄せられました。
見ると光の参道が出来ていて粋な計らいをしていただきました。
たぶん八大龍王神の計らいなのでしょう。
参考までに添付写真を付けておきます。
さてそれから舟形の麻賀多神社に参拝したのですが
この社の石灯籠は安永四年(1775年)に
近くの北須賀の氏子が寄贈したものでしたが、
北須賀という灯篭の文字から蘇我のイメージを強く受けました。
麻賀多神社に蘇我氏も関与していることは
間違いないだろうと思います。
封麻賀多神社が蘇我系なら継ぐ神霊は八大龍王 - 吉田一氣 Site
2009/09/19 (Sat) 15:38:30
筆者ホームページの「熊本霊ラインと中央構造線」でも考察したが
蘇我系の妙見神の顕現は八大龍王神として現われることが多いようだ。
当然、麻賀多神社が蘇我系ならば、
岡本天明の天日津久神社での感応にも
八大龍王神が関与しているはずだ。
調べてみると至恩郷の月の宮に岡本天明作の三貴神像があるが、
三貴神は八大龍王に乗って宇宙を駆けているそうである。
※「日月神示はなぜ岡本天明に降りたか」岡本三典 P146
またそのP63には矢野祐太郎氏の配偶者である矢野新女史が
千駄ヶ谷の友人の会合に出席した時に八大龍王神に感応して
「八大竜王、しばしこの場に鎮まりまします」と叫んでしまったそうだ。
それでどうした訳かと近所を散策していたら
そばの「鳩の森八幡」で偶然天明と出会い、
ここで天明からお筆さきを見せられたそうだ。
これが矢野新女史発案の筆先の奉賛会に発展したとの記載がある。
これも傍証にはなりそうである。
麻賀多神社と富と豊 - 吉田一氣 E-mail Site
2009/09/19 (Sat) 08:00:25
確認できている訳ではないが、
ネット検索によると前出の「古語拾遺」には、
富の命が忌部を率いて四国から当地へと
渡ったと記されているそうだ。
でも本当に富という文字なのだろうか?
豊ではないのかと改めて問いたい。
きっとトヨのキーワードが麻賀多神社のどこかに残っている筈だ。
ちなみにここから程遠くない鹿島神宮の祭神である武甕槌神は、
古事記及び先代旧事本紀では豊布都神(豊布津神)との記載がみえる。
ちなみにフル及びフツは物部系である。
筆者の蘇我氏考察でも記載しているが建速須佐之男命は、
物部氏の系統では血統は石上神宮の祭神より
布留─布都斯─布都─宇摩志麻治命の血統となる。
布都斯は建速須佐之男命と同定されている。
建速須佐之男命は物部系の布都斯という人物であったが、
蘇我氏系トヨに婿入りしたと考えている。
従って布津は物部とトヨの両方の血を引く。
それ故に豊布都神と呼ばれるのだろう。
當麻物部の拠点の二上神社でも豊布都神は祀られている。
武甕槌神がどういう神であるのかについては、
ここでは問わないが、建御雷とも書き、
建は建速須佐之男命の建でもある。
さて香取と鹿島とが原初においては同じ祭神であることは
神霊感応がある者なら気づいてもおかしくはない。
ところがこの両社は中臣氏が引き継いでいる。
中臣は中富でありこの富が曲者であろう。
タケ トヨ トミには繋がりがある。
だからと言って同属ではないし同じ信仰という訳でもない。
熊本の独鈷山と妙観山 補足写真 - 吉田一氣 E-mail Site
2009/09/13 (Sun) 23:18:56
参考までに地図上での独鈷山と妙観山の位置関係を
添付しておく。
これを見ると熊本霊ラインに対して直角の位置にあることが、
分かると思う。
http://reyline.web.fc2.com/chihenji/chihenji.htm
熊本の独鈷山と妙観山 - 吉田一氣 E-mail Site
2009/09/13 (Sun) 23:08:50
天社宮に参拝した帰りにふと背後の山が氣になったので
調べてみたらその山が妙観山(みょうけんざん)と呼ばれ
もとは独鈷山と呼ばれる時期があったことが分かった。
間違いなく霊山だと思われる。
池辺寺はこの山に臨む祭祀場だったのかもしれない。
今の独鈷山に登ってみると熊本霊ラインと直角の位置に
妙観山が位置することが分かった。
妙観山が熊本霊ラインにどのように関与していたのか
今後検証の余地がありそうだ。
麻賀多神社と忌部氏 - 吉田一氣 Site
2009/09/13 (Sun) 13:42:44
前回までの麻賀多神社についての考察で
祭神が祭神の稚産霊神は豊受神の親神ということで
それはトヨに繋がるし、
武内宿禰の子の波多八代宿禰の気配が感じられることと
神八井耳命八代孫ということ
麻賀多真=勾玉=蘇我系というキーワードに
同じく千葉の蘇我町にある蘇賀比咩神社の由緒によると
第15代応神天皇より蘇我氏が国造に任命(下総国?)された
とあることなどを総合的に考察して
この麻賀多神社を蘇我氏系ではなかろうかと考察した。
さらにこの神社には封印が為されているのではないかと
まだ麻賀多神社に参拝した事も無いのに
勝手な考えを述べさせてもらった。
この地においてそれを行う部族の候補としては
鹿島・香取神宮に繋がる中臣藤原氏か、
7世紀か8世紀頃?に進出した房総半島の安房忌部氏が考えられる。
忌部氏の祖は天太玉命であり蘇我氏同様に出雲では玉造を行っているし
物部氏とも中臣氏とも競っている歴史がある。
さて蘇我氏と忌部氏の接点として歴史的に証明されているものとして
奈良の曽我町と忌部町の中間にある曽我玉造遺跡が挙げられる。
ここには忌部氏の奉祭する式内大社の太玉命神社と
蘇我氏の奉祭する式内大社の宗我坐宗我都比古神社が近接してある。
この玉造遺跡で5世紀後半から6世紀にかけて
玉の一貫生産がなされている。
忌部氏の斉部広成撰述による807年の「古語拾遺」によれば
祭祀に必要な鏡、麻(青和幣)神衣 玉は
忌部氏の管轄下で作られていたとある。
蘇我氏は大和の王権そのものを握った時期があるが、
この蘇我氏の配下として祭祀一族である忌部氏は物部氏や中臣氏と
競ったのは間違いないものと思う。
この時代の繋がりとして蘇我氏−忌部氏 物部氏−中臣氏
葛城氏−賀茂氏 天皇家−多氏というペアがあったものと考えられる。
蘇我氏は渡来系氏族とも深い関わりを持っているが
例えば蘇我氏配下の倭漢氏は忌部氏と同じ高市郡を本貫としている。
また忌部氏と秦氏との繋がりも深い。
また同様に忌部氏と賀茂氏にも繋がりがありそうだ。
さてここまで蘇我氏と忌部氏との関係及び中臣氏との競合をまとめたが
房総半島の安房忌部氏についていくつか記載したい。
ネット検索の結果ではあるが、
印旛沼の由来は「忌部沼」が訛ったものであるという伝承があるそうだ。
また麻賀多神社の麻の紋章も忌部氏由来と言えそうだ。
こう考えていくと麻賀多神社の六芒星は忌部氏と繋がりそうだ。
では麻賀多神社の封印は忌部氏が行ったものなのか?
そもそも蘇我氏ではなく忌部氏が
もともと祭祀していたのではないか?という疑問も湧く。
それについては、伊都許利命が神八井耳命八代孫という記載と
岡本天明氏の感応が日月星に繋がる日月神示として示されていることから
忌部氏とは考えられないし、忌部氏なら謎解きの必要も無くなる。
さて誰が何の目的で蘇我と三光を封印したのか?
この疑問については次回考察したい。
今気づいたことですが - 吉田一氣 E-mail Site
2009/08/14 (Fri) 00:56:19
神霊の不思議演出には慣れっこのはずですが、
下に「青麻神社の三光と六芒星」で記載した
青麻神社の紋は丸に麻の葉の六芒星でしたが
「日月神示の麻賀多神社」で記した
葉県成田市台方字稷山の麻賀多神社の紋も
丸の無い麻の葉紋の六芒星でした。
偶然に今 分かったので驚いているのですが
それで他にも数多いのかと思って検索してみました。
麻の葉でもきちんとした六芒星になっているものは
残念ながら少ないようです。
青麻神社は三光で見つけだした神社ですが、
麻賀多神社は神霊に呼ばれている神社で
その理由を調査している最中でした。
三光と六芒星を結びつける神社といえば
丹後一宮の元伊勢 籠神社ですが
これで私なりに繋がりました。
麻賀多神社祭神の稚産霊神は豊受神の親神となりますが
http://makata.jp/gosaishin.html
籠神社でいう豊受大神は真名井神社に降臨した神で
真名井は真渟名井=真瓊井で
ヌナ=渟名(ぬな)=瓊=ヒスイのことです。
豊受大神は穀物神であると共に羽衣トヨの一族の奉祭する神です。
トヨの一族は神功皇后に始まり蘇我氏と繋がる一族です。
三光の紋については2007年12月に掲示板にて
目黒の案山子さまから城南宮を紹介されてからの縁で
これまで調査してきましたが、非常にいい勉強になりました。

やはり麻賀多神社は勾玉にまつわる神社であることが
分かりましたし、豊受神の親神であることから
トヨの一族 蘇我氏との繋がりのヒントを戴きました。
日月神示の岡本天明氏の自動書記開始の麻賀多神社 - 吉田一氣 E-mail Site
2009/08/12 (Wed) 11:34:07
岡本天明氏は麻賀多神社の摂社の天之日津久神社で
啓示をうけたそうだが
この麻賀多神社はもともと麻賀多真大神=マガタマ大神を
祀っているそうだ。
由緒としては応神天皇の御宇に神八井耳命八代孫の
印波国造となった伊都許利命=イツコリミコトが
奉斎したのが始まりらしい。
ところでこの成田市台方と船形は『 和名抄 』でいうところの
印旛郡八代郷に比定されているそうである。

今まで筆者は熊本の八代と繋がる武内宿禰−波多八代宿禰と
武内宿禰−蘇我石川宿禰を追っかけてきたが、
神武天皇─神八井耳命─多氏─健磐龍命?阿蘇氏系統と
神武天皇─神八井耳命─蘇我氏─建速須佐之男命─八島野命の系統を
筆者ホームページの「蘇我氏考察」で考察している。

さて千葉の蘇我町にある蘇賀比咩神社の由緒によると
この地域は第15代応神天皇より蘇我氏が国造に任命されたとある。

これらを考慮してこの麻賀多神社の由緒を考察すると
どうもこの神社は蘇我氏系神社だと感じられる。
キーワードは蘇我氏由来の勾玉と地名の八代と
神八井耳命八代孫ということと
第15代応神天皇より国造になっていることである。
このことから考えて伊都許利命も蘇我氏系である可能性がある。
だとすると日月神示は蘇我氏系の神霊の啓示となろう。
読み解くにあたりいくつかの考慮が必要かもしれない。

どういう意味かというと
例えば麻賀多神社に祀られていた勾玉は七個とあるが
実は八個ではないだろうか?
また七にちなんだ御縁起中の緒地名の
七台、七坂、七井戸、七干場、七兎田、七人百姓などの七は
八を封印しているようにも思える。
強い魔的な封印を感じるので審神しながら啓示を読み解かないと
とんでもない魔道に陥る可能性があるということだ。
青麻神社の三光と六芒星 - 吉田一氣 E-mail Site
2009/07/25 (Sat) 15:12:14
筆者ホームページの「蘇我氏考察」内に
三光の紋と六芒星の組み合わせとして
元伊勢籠神社の絵馬の紋を紹介したが
宮城県仙台市にある青麻神社の神紋も気になっている。
この神社は西暦852年に山城国より移り住んだ
海神族末裔の穂積保昌という人物が
日月星の三光を祀ったのが最初という。
この神社の神紋は麻の葉で六芒星を形作っている。